笑話47年7月29日 朝の御理解 (末永信太郎)
御理解第45節
世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おkげを取りはずすぞ。
おかげを取り外すと、そのおかげを頂いておるとか、持っておるから取り外すのであって、そのおかげを持っていなかったら、取り外すことはありません。持ってるから、取り外すのである。持っていなかったら、取り外すはずもありません。色々、45節説かれる。先日頂いた御理解なら、私どもが、どういう例えばおかげを頂いても、その、今中という気持ちでおれば、油断をせんで済む。まだ、今が真中だという気持ちであれば、油断をすることもない、と。
けれども、もう、これこれのおかげを受けたから、もう後は楽だ、と。例えば、お金も出けた、商売もだんだん繁盛しておる、というようなのでありますと、信心に油断が出ける。油断が出けると、( )頂いたおかげを落とすのですけれども、まあだ、おかげを頂いていない、まあだ、今が半分目だというような考え方をしておると、おかげを落とさんで済むというような御理解でしたが、今日はそういう意味ではありません。頂いておる、ね、手に持っておるから落とすのだと、こう言う。
持っていなかったら、(何か?中?)落とすはずはない、と。もう、これは絶対信ですかね。絶対落とさんで済むという、ここにある本当の意味において、ね、実が入って来ると言うか、ね、実が入れば実が入るほど、言うならかがんで来る稲穂のようなものだ。ね。
実が入っとらんのに、頭を下げとかにゃいかん、辞を低うしとかにゃいけん、信心に油断が出けちゃでけんと一生懸命気張っておるから、実も入っとらんのに、やっぱいつも頭だけは下げとかんならんてん。けれども、自ずと下がって来るものですわね。実が入れば入るほど自ずとと頭は地につくようになって来る、と。そういうおかげをね、頂かなきゃならん。
まあ、おかげを頂くというよりも、何て言うかね、そういう信心が身に付いて来なければならんという事でしょう。ね。言うなら、信心がそのように血に肉なって来なければならん。そこには、おかげを落とすということがない。本当に実が入って来りゃあ入るほど、かがんで通れと言われんでも、かがんで来るのである。だから、その過程においては、信心させて頂いておるから、いつも自分というものをしっかり見極めて、いつも、その、出すぎるようなことがあちゃならんとか、または、人を、まあ、軽く見てはならないとかということに努力するという間は、うかつにして、やはりおかげを落とすのぞ。ね。
けれども、実が入ってくれば、そういうことはない。軽う見ろうと思うても、軽う見られないようになる。いや、そういう風に映じない、自分の目に。ね。そこで、どういうことになるかと言うとね、いよいよ信心の有り難いというか、信心の(さんまいきょう?)というものが開けて来るという、ただ、それが開けて来るということが楽しみであり、有り難いのである。ね。
もう、ここにはおかげの世界というようなものは、じゃなくて、いわゆる信心の世界ということになる。で、そういう信心を段々身に付けて行きたい、ということのために、私どもがどういう信心をさせて頂いたら良いか、と。昨日は、竹葉会で私も2時間ぐらいの時間は、一緒に信心の共励をさせて頂きました。
色々、だんだん雰囲気が良くなりますに従って、良いお話が銘々の中から出て来るわけですけれども。椛目の、あの、宮崎さんが久しぶりで参ってみえられる。昨日はまるしょうの何か御用もあったらしいんですよね。ちょっと遅うからでしたけど、参ってみえて。もう先生、この頃はもう、とにかく仕事が山積みしております、と。もう、田んぼに行っても、畑に行っても、山に行ってもです、もう、手の付けようがないぐらいに忙しい。そして、最近思わせて頂くことは、あれほど一生懸命、朝参りでもさせて頂いておる時にはですね、時間があったって。昼寝も1時間2時間ぐらいさせて頂ける時間があったって。
ところが、このように、只今のようにご無礼致しておりますとですね、もう、その、もう暑い例えば時なんかは、ちょっとお百姓さん昼寝をなさるんですね。昼寝を今日はちょっとでもさせてもらおうと思うと、人か来るちゅう。もう、眠る時間もなからなければ、仕事は山積みして手の付けられない。
もう、とにかく本当を言うたら、もう何もかにも機械力ばかりでですね、もうずいぶん、手は余らなきゃならないはずなのに、忙しいばかりだと、こう言うわけです。それで、初めて少し分からせて頂いておることはです、あの、信心を疎かにしたら、もう、これはお父さんと話しよりますて。
私だん、もう一生、もう働き人で死んでしまわにゃんじゃろう、こげんにあるならば、と言うて話しよりますと、こう。なら、こんなことではいけない、いけないと言いながら、忙しか、(さんにかまけて?)しまって、信心も出けませんけれども。これは、やっぱ本気で信心をさせて頂かなければ、いよいよ、お仕事に言うならば追い回されてしまう一生で終わらなけりゃならんというようなことを気付かせて頂きよります、という話をしました。
これは皆さんも、皆さん体験がお在りになるだろうと思うですけどね。それはもう、皆さん、そういう風なお話をされると、皆が、なら貴方、こういう体験やっぱありますと言うて話しておられましたが。ね。本当に仕事に打ち込むということを先にせずに、やはり信心に打ち込むということ。ね。この頃から秋永先生が秋月教会での信徒会の時に、平田さんの話の中から聞き取らせて頂いたという、まあ、話ですね。
平田さんが、十分信心も出けんのに、どうしてこげんおかげを頂くじゃろうか、と。したら親先生が、アンタが一番参って来たもんな、と仰ったという話。ただ参って来たということは、朝参り、夜参り、いわゆる、日参りさせて頂いてもです、ね、そういう意味のことじゃなかろう。参るということになら、もう、それこそ(人語?)に落ちない人が沢山あろうでしょうけれども、おかげを受けていない事実から、甘木の先生が仰った、アンタが一番参って来たもんなというのは、アンタが一番打ち込んだもんな、ということであろう、とこう。信心は、ね、つけ焼き場の信心じゃいかん。何かおかげ頂かんならんけん、ちょこちょこっと参る、ちょっとお願いに行く。いわゆる、つけ焼き場。
おかげを頂いとる時だけは参るけど、自分の思いにならんと、もうご無礼するといったような信心がどれほど続いたところで、大したことはない。その身から打ち込んだ信心をアンタがさせて頂いたもんな、という意味であろうと思う。いわゆる、その身から打ち込んだ信心をしなければならないということ、第一。
ね、(今日言う?)。いわゆる、おかげを落とさんで済む。打ち込んだ信心からね、神様も打ち込んで来なさるから。ね。だから、もう、おかげというのは、もう頂くというのではなくてね、言うなら神様がどうぞ下さい、下さいと言う頂くのではなくて、神様が持って来て下さる。信心も出けんのに、どうしてこんなにおかげを頂くじゃろうかというおかげなん。ね。
ですから、そういう信心はです、ですからその身から打ち込んでおかんと出来んのです。やっぱり、自分の仕事、自分の都合の方を先に取ります。ね。そうすると、やはり仕事がもう追い被さって来るように沢山あります。だから、それに取り組んどると、もう、とにかく忙しゅうして、忙しゅうして、ちょっとお参りしようと思いよりますけれども、この頃お参りも出けんごとなりましたという、必ずそうなる。
けれども、この調子でだったらお父さん、一生私だん、もう働き人せにゃんごたるですばいち言って、まあ、話しておるということは、少しそこんところの本気で打ち込まなければいけないことが分かって来た。ね。その身から打ち込まな、打ち込んだ信心させてもらわにゃいけないということが、やはりそういう、一つの体験からやっぱ打ち込むことになって来るんでしょうね。
おかげば頂かんならんからと言うて、一生懸命打ち込んだ時の、さあ、そりゃあ、本当のその身から打ち込んだのじゃない。ね。神様が分かって来るに従って打ち込んで来るという信心。いわゆる、本当に信心が身に付いて来るということ、本当に信心が有り難うなって来るということ。
昨日は久しぶりで、高橋さんところの奥さんも出て来とる。もう、何ヶ月ぶりかだった。けれども、あなた一つも、この長く参って来なかったのにしては、その、あれは信心を落としますと人相がすぐ変わりますですね。あの、最近、えらいお参りがないが、あの人どげんしよりなさるじゃろうかという人と会ってごらんなさい、もう、必ず人相が悪くなっとるです。もう、これは不思議ですよ。
にしては、貴女は人相が一つも悪くなってない。(同時?)で一生懸命、精進が出来よるじゃろう。やはり、お父さんが一生懸命打ち込みなさるけん、まあ、言うならばお父さんの信心の余波で、お徳でおかげ頂くようになるっじゃろうち言うて、まあ、皆で話したことでした。
それは先生、私はこのことをね、もう、いつまでも自分の心の中に残っておるというのは、すぐあちらの近所に大丸さんていう家具屋があります。もう、有名な甘木の御信者さんです。甘木のお日参りだけではなてく、御本部には月参り、月参りじゃないですね、月に二回ずつ参りなさる。田原さんと言うて、有名な御信者さんがあります。出光(佐藤さん?)の従兄弟に当たられる方です。
それでもね、甘木に一生懸命、私どもが若い時に打ち込んだ時には、もう、どうにもこうにも、もう、にっちもさっちも行かんようになって、甘木の親先生にお願いして、二十円、当時のお金で借らせて頂いたことがありますち、そういう時代がありましたっち。
もういかん、もうたまらんという時に、親先生に御取次を願わせて頂いたら、田原さん、女は家を起こしげ来とるとばい、と仰ったげなね。女はその家に嫁入って来たならね、その家ば起こしげ来とる、と。もう、これが私の心ん中にですね、私の心の中にこびりつくようにして感じるて。
しかし、お徳を受けた、お徳の人の話っちゃそんなですね。さっきあの、平田さんが言われる、アンタが一番参って来たもんなということの、その言外の言というものが、ずっとこちらへ響いて来るような感じ。田原さんに仰ったという、ね、女はその家に嫁入って来たが最後、その家を起こしげ来とるとばいち。
私はそれを聞かせて頂いてから、思いもし言いましたことじゃったが、私の方の家内なんかは、やっぱり大坪家を起こしげ来とるという自覚はなかったにしても、それを実際、実行して来た女子だなと、私は思うです。なぜって、どんなにきついとか辛いとかという時でも、別れようと言うたこともない、また、私が、なら追い出そうということも、もちろんありませんけれど。ね。
もう、どういう中にあっても、一生懸命にただ私に付いて来たということです。これね、起こしげ来とる。財産がある、財産があるて、そんなこっじゃない、だけじゃないです。その家に例えば、高橋なら高橋の家にめぐりがあると、例えて言うならね。その、言うならばめぐりのお取払いのために頑張っとると、こう。ね。もちろん、そういうことになるのですから、なら、店が繁盛して行くのも当たり前。
ははああ、ほんに、高橋さんが一生懸命打ち込みなさるけん、だけでおかげを受けとるとじゃない、家内がそういう精神で、まあ、いつでもおる訳じゃありますまいけれども、ね、そういう心の状態がきつい時にチラッとそういうものが心の中に感ずる。本当にきつい、きついけれどもね、ほんに私はこの家を起こしげ来とるとだという思いがね、ありますから、まあ、辛抱が出けますというような意味のことを言うておられた。もう、一番最後の方でしたけれども、皆それでおかげ頂きました。
私も、もう本当、素晴らしいことだねと言うてから話したことでした。ちょっとどうかありゃ、もう、別れる。もう、どうかち言やあこうというなもんじゃなくて、どういうところでも、この家は起こしげ来とるとと言うね、私は自覚が出けたら素晴らしか、と。
いわば、その身から打ち込まなければ、そういうことは出けません、そういう思いの状態になれません。ね。この頃、一時の御祈念の後の御理解が、もう、これで二度目のところになっておる訳ですね。普通は、ここでみんな御祈念が始まった時に御理解をいつも頂くのですけれども、前に一回頂いておる訳ですね、こうやって。ですから、そういうこと、あの、ダブってはならんというような気持ちが、ちょっとこう、起きたんです。ね。または、同じ御教えですから、同じようなことをここで言うた分じゃいけませんからね。
そのことを神様にお願いしてもらいよったら、あの、前の日からここんところを見ておくように頂いた。そすと、その、ははあ、こういうことは同じことがダブらんようにと、いわばね、いう、次の御理解を頂く時に頂き良いということなんです。して、今日の御理解は、昨日が口に真を語りつつじゃったですね。
わが身の苦難を知りながら、人の身の苦難を知らんこと、という。もう、こう時に時に、明しに明して来とる御理解ですから、なかなか、その、私の頭の中に浮かんで来ないわけです。ね。しかも、ここにはもう、素晴らしいことが前に説いてあるんです。自分の苦しい体験で、人も苦しかろうと分かっておるだけではならん、と。それが祈りに、または他の助かることのための行動に現されなければならない、というようなことが前の御理解。して、このことを私は、あの、思わせて頂きよりましたら、お魚を釣ってるところを頂きました。こう、魚を釣っておる、いわゆる釣りさんまいとか申しますね。
釣れるとか釣れないということは問題じゃないと、こう言うのである。ただ、ジーッとこう、あの、釣り糸をたれて、その、浮かしですかね、浮かしをジッとこう見つめておる。そこにね、その、どうして釣れんじゃろうかてん何てんちゅうようなじゃなくてね、もう、そこに一つの(さんまいきぐ?)があるということだと思わせて頂いて、なるほど、信心の(さんまいきょう)。
ね、今日の御理解で申しますと、ね、おかげを受けるというのであれば、そのおかげは、ね、油断が出けたら落とさなければならない。ね。けども、信心の味わいが段々身について来る、信心が分かるということは、もう釣れるとか釣れないということは、もう問題じゃないということ。
頂いてなくても、だから、これなら落とし様がないというのが、まあ、今日の45節の御理解なんです。ね。だから、そういう、んなら、信心とはどういうことかと言うと、いわゆる、信心のさんまいきょうというものがです、段々開けて来るという、そういう信心が身について来ることだ、と。ね。
そういうことを、んなら、わが身の苦難を知りながら、人に身の苦難を知らぬことと言うが、どういうことかと言うと、自分が信心がなかった時代。いわば、自分が信心が、おかげをおかげと、おかげだけを追うておった信心の薄かった時代。ね、言うなら、信心のなかった時代のことを思うて、今日、信心の有り難さが段々身に付いて来た。そこに分からせて頂くのはです、信心のない人達の姿。ね。
人間の難儀、人の世の難儀の様相というものがです、ね、見れれば見えて来るほど、そこに真剣な祈りがその人のために、また、その世の中のために祈らなければおられないというような信心がです、ね、私は今日の、今日の昼に頂くことであろう、そのわが身の苦難を知りながら、人の身の苦難を知らぬこととは、そういうことであろう、と。ただ、自分達が一生懸命、あの貧乏しておった時代に、金のない人達を見ると、やっぱ、同じやっぱことですから、比況して考える。
だから、この金を持って行っときなさいと言うて、親切に貸してあげる。ね。けれども、そういう浅いものではないと思う、教祖様の御教えというものは。ね。(同病相哀れむ?)。はあ、 本当病巣な、この病気は苦しいですもんね、と。そん時にはこげな薬がありましたよ、こげな良いお医者さんがおられますよと教えるぐらいなこっじゃないて。ね。
私は、信心が本当に自分の身に付いて来た時、信心が本当に血に肉になって来た時に、自分の信心の薄かった時代、信心がなかった時代のことを思うてです、ね、人間の幸不幸というものが、もう和賀心一つにかけられておることが分かって来れば来るほどにです、ね、そこに薬を教えてやるとか、金を貸してやるといったような、いわば普通で言う、ね、わが身をつねって人に身の痛さを知れというようなね、というようなものではなくて。ね。もう、本当にその人のために、世のために祈らなければおられない、その実感そのものが自分の信心の程度と言うても良いのです。
こういう信心なら、もう絶対落とし様がないですね。信心がだんだん有り難うなって来る。信心のなかった時代のことを思うたらです、そこに信心の薄い人、信心のない人達の姿というものが、難儀の様相がもう、ありありと見えて来るようになる。ね。
それを見るにつけてもです、祈らなければおられない。そういう信心が、私は、人の身の苦難を知らんことと仰るとは、そういうことだと思う。信心で言うのは、そういうことだ、と。自分が貧乏しておる時に金に難儀したから、あなたが難儀しよんなさるなら、ね、誰でん苦しか時は同じこっじゃけん、これば持って行っときなさいと言って、貸してあげたり、あげたりするようなもんじゃないて。
信心の深さというのは、まいっちょ向こうにある。なら、そういう信心とは、今日、私が言う心に信心のさんまいきょうが開けて来る。そのさんまいきょうとはと言うのは、ね、人の世の浅ましい状態。人間の難儀に苦しみ抜いておるその様相をです、見るに見かねての信心がなされる。ね。
そういう信心が身に付いて来たらです、とても落とされるはずは絶対ありません。そして、神様のお心に、言うなら神様のお喜びを頂く、その信心ですから、神様のお喜びはこちらにもう、いよいよ帰って来ないはずがない。ね。信心の喜びというものが、いよいよ深く、ね、言うならば、重いものになって来るから、これはもう、頭を下げねばならんから下げるのではない、自ずとそれこそ下がって来るということになるのじゃないでしょうか。ね。
だから、そういう信心をです、目指させてもらう。その過程において、宮崎さんの例をとりました。ね、宮崎さんの話。高橋さんの奥さんが言われた話。ね。その身から、先ず打ち込まなければ。それは、おかげに打ち込むのではなくて、信心に打ち込まなければならない。おかげに打ち込んで、なるほど、おかげを受けるかも知れんけれども、おかげを受けると、もう自分の力で(ばし?)受けたように思うところから、またおかげを落とさなければならない。
だから、落とすようなおかげは、もう、身には付けてはいないという信心。ね。信心が身に付いて来る。信心が、もう血に肉になって来る。そこから開けてくるさんまいきょう。ね。信心の喜びの生粋とでも申しましょうか。それは、ただ自分が悦に入っておるというだけではなくてです、信心がそういう分かって来れば来るほどに、人の世の様というものが見えて来る、人の難儀な状態が分かって来る。
はあ、あの人はそれこそ血の涙を流すようにして腹かいておんなさるけれども、ね、信心、本当に幸不幸というものは難儀、難儀でないというのは、自分の心次第であることが分かっておりなさらんからである。ね。和賀心次第であるのに、と世の中の難儀というものが、けっきょくわが心から難儀をしておるんだということが分かって来る。そこにです、もう一つの和賀心ね。信心で言う和賀心、和らぎ賀ぶ心。これが身に付いて来る喜びを人に伝え、または、それを神様に祈らなければおられない。ね。
世界天下国家のことまでも祈れる。ね。そういう世の中の難儀な様相を見て、それが、ね、それこそ自分の信心のなかった時代が、あの同じような様相であった、と。あの人のように、あのくらいなことに腹を立てておったと、例えて言うと。ね。それが、信心を頂くようになっての今日は、そのことに私はお礼が言えてるほどしの心の状態だ、と。わが身の苦難を知りながらである。ね。
ですから、そういう人達に、そういう世の中をです、少しでも助かってもらいたい、清めてさせてもらいたいというような信心が、自ずとと出来て来る。そういう信心にならせて頂く時に、いわばここである、ね、実れば実るほど頭が下がるという稲穂のように、もう、下げねばならんから下げるのではなくて、自ずとと下がって来る、落としようがない。ね。いよいよ信心の、言うなら信心は、一年、信心をしておれば一年一年有り難うなって来ると仰る、その有り難うなって来るという信心。おかげが有り難いと言うのじゃない、信心が有り難いという信心。ね。そういう信心が身に付いて来る限りです、落としようがない。
いよいよ、それこそ一年一年有り難う行くところのおかげが受けられる。ね。そういう信心をです、生半端な信心で受けられようとは思われません。やはり、その身から打ち込んでの信心でなからなければ、おかげは受けられない。今日は、落とそうにも落としようのない信心。ね。ますます、それは育って行くことに違いはないという信心。もう一つの深い意味合いにおいての、わが身の苦難を知りながら、人の身の苦難を知らぬ事と言う、ただ、親切といったような、そういうものではない。
もう一つ奥の親切とでも申しましょうかね。信心のない人達、また、世の中のことを祈らなければおれないほどしの信心。そういう信心を身に付けて行きたい。どんなに、例えば苦しい思いをする時であってもです、一つの思い込みというのが、ね、田原さんのその一言ではないですけれども、どんなに苦しい時であっても、自分はこの家を起こしげ来とるんだという自覚に立たせて頂いて、現在の、んなら、あの大丸商店ですかね。甘木の親先生が、ね、田原さん、お金がいくらいるばいと仰ったら、全財産うちぶっても、惜しゅうないと言われるほどしの、田原さんの信心、そういう風に言われておりますね。
そういう信心が生まれて来るなら、もう、自分の物ではないというものです。だから、落としようがないでしょう。家の財産は全部、甘木の親先生の御物だと思うちゃる。だから、もう、落とそうにも落としようがない、自分のモンじゃない。ね。そういう信心を頂いて行きたいと思うですね。どうぞ。